先日はトナカイで「禄存・司禄」講座を終えたあと、急いですぐ仕事場に戻って、鍼灸の患者さんをお迎えしていました。
その日の患者さんは、ウン十年前から筋金いりの「バンギャ」→ いまも「おバンギャ♪」とご自身でおっしゃるような陽気なお姉さま(ご丁寧にも石門星+天将星×2の御生れ)。いつもこちらが目の玉飛び出るような超濃厚コアな話をお聞かせくださいます。ちなみにお嬢さんはもう立派な社会人で、お母さんとご一緒にやっぱり筋金入りの「バンギャ」でいらっしゃる。すごいのねー。すごい世界なのね。。。
そもそもわたしが占い師だってことはお話してないし、ましてやその日は延々とみんなで「人気とお金」の話をして帰ってきたところだなんて知る由も無いのに、その日はいきなり「ものすごく可愛くて優等生で、ファンには常に神対応してたアイドルの卵が挫折しちゃった話」を聞かせてくださった。
「わたしっていったい何?わたしは本当はなにがしたかったの?こんなことをするためにここにいるの?なんのためにこんなことをしているの?わたしって、わたしって…」って号泣して崩れちゃった姿の描写を克明に教えてくださった。
うむむむむ… そうなのか。これって… これって… まさに「あるがまま自分らしくあろうとする(貫索石門) vs みんなに愛されようとする(禄存司禄)」の話だよね…と、心のなかでうなっていたのはこのわたしです。
不特定多数、たーーーーくさんの人たちの幻想、期待、夢、妄想、愛情、応援、妬み、誹謗中傷みたいなものを一身に受けながら、にこやかに笑って、歌って踊り続けるアイドル。アイドル=偶像。アイドルはイメージ。生身の人間なんてどこにもいないほうがいい。素顔の自分なんかじゃなく、どこまでも、どこまでも、みんなから求められるイメージを演じきることがだいじ。そういうことなんですよね?たいへんだな。わざわざ求めてそういう世界にいくのか…
でも、別に別世界のアイドルなんかじゃなくてもいい。みんなに好かれたい。周りから自分が重要な存在として扱われたい。いいひとっておもわれたい。ちやほやされたい。ほめられたい。いいね!ってたくさんいわれたい。もっとちょうだい。もっともっと。もっとほめて。もっと好きって言って!その程度ならみんな少しは覚えがあるはず。
日常生活で、隣にいるあのひと。こないだあったあのひと。もしかしたらあなた自身が、そういう欲求に振り回されているとしたら?もちろんそれは、生きていくために適度に必要な技だけれど、それ自体が目的であるのなら、たいへんだな。
わたしは、あなたの願いをかなえる。わたしは、あなたの期待を満たす。
だからわたしを見て。だからわたしを愛して。だからわたしを大切にして。
もっと、もっと、もっと、もっと。どこまでも、どこまでも。
増やして。増やして。固めて。固めて。いつまでも。いつまでも。
遠目に見てると、禄存星・司禄星的な世界は、そんな風にわたしの目には映ります。たいへんだなーーー。疲れそうだ。形あるものはいつか壊れる。生きてるものはいつか死ぬ。どんなに望んでも、誰でも自分の器に見合った量しか持てない。流れは常に変わる。ひとの心も変わるから、貯めておいたり、形にしておくことはできない。だからそんなにもっともっとと言われてもなぁ… 結局は最後にぜんぶ無くなるんだから。わたしはそんな風に思ってしまう。
色々手配したり察したりするのは。「だから、わたしをうけいれてね。敵意はないから。」なのであれば。無条件の、ひとの好意というものを、多分信じられないのでしょう。他人にとって有用でなければ、自分の存在を受け入れられない、あいされない、と。
だからこそ、土性のひとは「裏切られても、それでもひとを信じ抜く」練習が必要なのね。