最近訪ねた神社の境内に、いろんな標語がたくさん貼ってありました。「言葉を大切にし、美しい言葉を使っていますか」「仕事に感謝し、世の為人の為に働いていますか」などなど。ひとつひとつ「ええ、ごもっともです。はい、頭でわかってはいるつもりですが、なかなか実践できません。ゴメンなさい」という痛いところを突かれます。
それらの標語が並ぶ中に、こんなフレーズがありました。「目に見えない神様を信じる勇気がありますか」と。えっ?そうだなぁ… そもそも私自身としては「目に見えない大きな何かは確実にある」と思っているけど、あらためて「神様を信じる」って言われるとちょっと躊躇しますし、やっぱり目に見えないものはないんだよ!という気持ちもたいへんよく理解できます。その看板の前でしばし考え込んでしまいました。
といっても、そんなときは下手な考え休むに似たり、です。ブルース・リーの有名なフレーズ Don’t think, feel! を引き合いに出すまでもなく、 そういった「なにか」は頭で考えて到達できるものではなく、自然に感じ取る以外にアクセスする方法がありません。踊る、歌う、音楽を奏でる、美しいものにふれる、このあたりは目に見えない何かを感じるルートの近道でしょう。学ぶ、歩く、瞑想する、運動する、自分をからっぽにすること。私自身は、ただただ圧倒されて驚くしかないような大自然に、何か大きなものを感じます。
「神様」のことはよくわからないけれど、私たちが携わっている目の前の「占い」は、太陽、月、惑星、恒星といった天体の規則的な(不規則的な)動きを観察し、そこから暦を作ったり、その規則性や法則を研究してきた人たちの歴史につながっていると考えるだけで、なんだかとても感慨深いものがあります。
軟弱でご利益に弱い典型的現代人の私は、目に見えないものを信じる力が弱いです。でも、大きななにかが形になって目の前に姿を現してくれた!としか思えないような瞬間は、やっぱりある。そのときには、自分自身のちっぽけな願望や、未来の展望なんて、まるっきり関係なくなります。いま、ここ!のこの瞬間だけが全て、最高の幸せ、と感じます。
そして、そんなきっかけは、別に特別な場所に出かけて行かなくても、日常生活の中にもあちこちに転がっています。ただ気がつかないことが多いだけです。これからも常にそんな一瞬、一瞬を生き続けられるよう、徘徊放浪していくつもりです。(天海玉紀)